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My little Lecce

南イタリア プーリア州 レッチェからサレント地方の美しさをお伝えします

レッチェ サンタ・クローチェ聖堂とユダヤ人居住区


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南イタリアのフィレンツェとの別名を持つ、プーリア州レッチェから今日もお送りします。
写真は、ついこないだの7月に2年間強の修復期間を終えて、新たにベールを脱いだ新生サンタ・クローチェ聖堂です。
レッチェ・バロック建築の至宝とされ、いわずもがな、こちらがレッチェでの一番の見どころとなります。

10月の黄金色の日の光に照らされて琥珀色に染まるピエトラ・レッチェーゼを建材として使ったサンタ・クローチェ聖堂はこの時期、
目も眩むほどの美しさを見せてくれます。


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こんな感じで通りの奥に突然その姿を現すサンタ・クローチェ聖堂は見るものを圧倒してやまないのです。


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1549年に建設が始まったこのサンタ・クローチェ聖堂、じつに2世紀にまたがる建設期間を経て完成され、地元出身の有能な建築家たちがこぞって腕を振るいました。大きな丸い “バラ窓” を中央に持つ教会ファサード上部に施された 気が遠くなるほどの無数の彫刻の数々。
一つ一つ見ていくと、それぞれにストーリーがあり、この場ではまったくもって語りきれませんので、また次回ゆっくりと、説明する機会を設けたいと思っています。

なにしろ、レッチェ周辺で大量にとれる “ピエトラ・レッチェーゼ” と呼ばれる乳白色の石灰質の岩が、とても柔らかく、ここまでの繊細な彫刻を可能にしたというのが、この華やかなバロック建築がレッチェで花開いた理由のひとつとされています。


さて、今回はこの華麗で豪華絢爛なサンタ・クローチェ聖堂にまつわるもう一つの知られざる悲劇のストーリーをご紹介したくふでを執りました。

レッチェ在住者でも知る人は少ない、知る人ぞ知る、抹消されたレッチェの歴史の1ページについてです。

さきほど、このサンタ・クローチェ聖堂の建設が始まったのが1549年とかきました。そのわずか40年前の1510年に、レッチェに当時居住していたユダヤ人に対する大迫害があり、改宗か死を選ばされたといいます。当然ユダヤ人たちはレッチェから逃亡することを選び、その後レッチェからいっさいのユダヤ人は追放されてしまいました。

現在のサンタ・クローチェ聖堂がある場所が、かつてのユダヤ人たちのマーケット広場だったといわれており、このマーケット広場を囲むようにユダヤ人居住区は広がっていました。

そうなのです。この華麗なサンタ・クローチェ聖堂はこのユダヤ人たちのマーケット広場、つまり彼らの生活上で最も重要だった場所を完全に消し去り、封印してしまうためにたてられたのです。

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こちらレッチェの全体図です。薄い水色のゾーンがかつてのユダヤ人が居住していた地区です。
とても大きな地区だったことがわかります。


当時のレッチェのこのユダヤ人迫害計画、さらにレッチェの歴史上からユダヤ人を抹消してしまおうという計画は功を奏し、長い年月が過ぎゆく中、ユダヤ人がここレッチェに暮らした形跡は跡形もなく消し去られました。


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しかし一度は封印されたかに見えたユダヤ人たちがレッチェに暮らしたという事実は、途方もなく長い歳月を経て、もう一度レッチェ市民の目に触れることとなるのです。上の写真は サンタ・クローチェ聖堂の真ん前にあるジューイッシュ・ミュージアム。つい3年前に開館したミュージアムで、ユダヤ人居住区を歴史上から抹消しようとした史実に対する紛れもない証拠がこのお屋敷の地下から発見され、今ではかつてこの地にあったユダヤ人居住区を記念するミュージアムとなっています。



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このお屋敷の地下から見つかったユダヤ教徒が沐浴の際に使用する無数の浴槽です。
この発見により、このお屋敷がたっているところに、かつて、シナゴーグ(ユダヤ教徒の礼拝所)があったということがわかり、さらに、


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ココがシナゴーグだったことを決定づけたのがこれ。壁に細長い穴が斜めに彫られているのがご覧いただけると思いますが、これはメズザといわれるもので、ユダヤ教の礼拝所のいりぐちの右側の壁に設置するもので、ユダヤ教の経典を入れるスペースです。
シナゴーグに入る前に必ずここに手を当てお祈りをささげないといけないそうです。


これらの発見から、現在サンタ・クローチェ聖堂が位置している場所は紛れもなくユダヤ人居住区の中心地であったことが判明しました。しかし、いったい、わたしたちが知っている歴史ってどれほど歪まされ、権力者の都合のいいように書き換えられてきたのかと思います。


レッチェのユダヤ・ミュージアム、私設の小さいミュージアムながらも、華やかなレッチェが隠してきた歴史の1ページをのぞくことができ、個人的に大変おススメです。できればサンタ・クローチェ聖堂とセットで見学すると、この聖堂の仰々しいまでの華麗なバロック建築に込めた本当の理由が浮き彫りになってくるはずです。

それでは今日はこのへんで。ア・プレスト!


レッチェ以外の街でもみつかった、マンドゥーリアのユダヤ教のシナゴーグ跡についてはこちら↓








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by mylittlelecce | 2019-10-14 09:52 | レッチェ チェントロストーリコ | Comments(0)

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